どんな子でも大丈夫【2】 ~友達の遊ぶ様子をじっと見ていた娘の現在~

こんにちは!mamanです。

前回は、園庭の隅にばかりいた息子のことを書きました。(前回の記事はコチラ

いつも1人で、園庭の隅の日陰で、泥団子をこねたり、虫を追いかけたりしていた息子が心配になったものだけれど、その「興味を深掘りする」資質をそのまま見守ったら、高校生になった今では、興味を深く研究する理系コースに進んでいます、という内容でした。

今回は、この春、高1になった娘はどんな子だったか...ということについて書きたいと思います。



友達の遊びをじっと見ていた娘

娘が幼稚園の頃は、お友達の遊びの輪の中に自分から入っていくことがない子でした。

お迎えに行くと、先生がその日の様子を教えてくださるのですが、

「今日も○○ちゃんは、お友達の遊びを一生懸命見ていました!」

と、言われるのです。

「え?...あの...ずっと見ていただけですか?」

「はい。じっと見ていました。お母さん、見ているということも、大事なことなんですよ。」

「はぁ...そうですか...。」

先生からは、

「友達の遊びをじっと見ている時というのは、いろんなことを感じたり考えたりしている時なので、その段階も大事なんですよ。」

と言われるのですが、親としては、やっぱりお友達とコミュニケーションを取って遊んで欲しいと、はがゆく思ったものです。

頭では理解できるけれど、気持ちがついていきませんでした。



表情を見て、内言に耳を澄ます

そんな娘ですが、その傾向は小学校でも中学校でも続きました。

お友達と話せないということでは、決してないのです。

話しかけられれば話せるし、お友達に意地悪したりすることもありません。

お友達と甘いものを食べに行ったりもしますし、バレエを習っていたころは、バレエのお友達にいじってもらって一緒に笑ったり...。

ただ、自分から友達に何かアクション、ということをしないんですよね...。

小・中学校時代の先生方からは、

「もっと積極的に周りと関わって欲しい。」

と言われ続けましたが、高校では何も言われていません。

今まで、おとなしいことを、「欠点」というか「改善すべき点」と思わせられ続けたのは何だったのだろう?という気持ちになります。

ここまで来たらもう、それは彼女の性分で、彼女自身が困っていなくて周りに迷惑もかけていないのなら、無理に「明るく元気で溌剌とした女の子像」を求めることは酷なんだろうなと思うようになりました。

これまでお世話になった先生方の中には、

「本人が困っていないことを、お母さんが先回りして悩まないでくださいね。」

とか、

「○○ちゃんは口数は少ないけれど、内言(ないげん:心の中で思っていること)はたくさんありますから、大丈夫ですよ。」

などと言ってくださる先生もいらっしゃったので、私も、はがゆく感じながらも、彼女の表情をよく見て、内言に耳を澄ますようにしてきました。

娘が高校生になった今、私にできることは、彼女の内言を大事にしながら社会に送り出すことだけ、という気がしています。

親以外の社会に育てていただく部分も大きいと思うので、

「彼女の寡黙さを長所として受け入れてもらえるような環境を、自分で見つけに行けますように。」

と祈っているというか...。

結局、うちの子達は、息子も娘も「我が道を行く」タイプなのかもしれません。

私の子だから、しょうがない

...よく考えたら、私にも、

「ちょっと、お家に帰って絵本を読んでくる。」

と宣言して園を脱走し、連れ戻されたことに立腹・号泣した、というエピソードがありまして...。

「園庭の日陰息子」や、「内言だけが炸裂娘」のことを母に話した時、

「あなたに似たのよ。」

と、笑われました。

思えば私も、絵本や塗り絵を楽しんでいる時は、1人で居たほうが居心地が良かったんですよね。

そんな自分の幼少期はすっかり忘れて、子どもにだけ元気溌剌を求めるのも、おかしな話です。

やっぱり、私の子だから、しょうがない。

最近になって、ようやくふっきれた感じです。

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